[1]拳法は、人間の天性の中に眠っている。
   それをよみがえらせ、成長さすのがこれ「道」である。「澤山宗海宗家」
[2]拳法とは、大生命力にふれるために小さい自我を撃破する道である。「森良之祐」
[3]拳法は、陰・陽の変化のうちに「道」がある。「桟原富士男」


天地開闢の始め、混沌たる世界から乾坤始めてわかれ、陰陽ここに始まり、二霊万物の祖となる。「古事記」「日本書紀」に上記のように記されてある。

拳法においてもこの根源を知り、陰(柔)と陽(剛)が相互に交錯し、作用しながら、循環(四季)の変化を生み、天、地、雷、風、火、水、沢、山の変化を動かし、生成と変化と発展の法則を知る。これが拳の「道」であり、人の「道」である。

日本拳法の目的は、拳理の修練による調和のとれた人間形成である。拳理の修練を日々正しく積み重ねることで心身を鍛え、気力を養い、物事に動じない心や、正しく判断する能力を備え、礼節を尊ぶ立派な人間を作ることである。









拳法の突く、打つ、蹴る、組みついて投げる等の行為は、有史以前に遡ることができる。人間が進化の過程で、手や足を使って外敵から身を守ることはごく自然であったと考えられる。日本において拳法の起源とされる史実は「古事記」「日本書紀」に記されている。「古事記」には建御雷神、天鳥船神二柱の神が出雲国に赴いて、天照大御神、高木神の詔命に依って、大国主神に国譲りを申し込んだとき建御雷神と大国主神の子の建御名方神との力競べが次のように記されている。

其の建御名方神が、千人もかかってようやく動かし得る程の大岩を、手先に提げ持って来て、「誰だ。我が輩の国土に来て、こそこそと何か話を為て居るのは。文句が有るなら、ひとつ我が輩と力競べを致せ。さあ、我が輩が先づ其方の手を掴ってやろう」と言いましたので、建御雷神が、その御手を掴らせたかと思うと、忽ちにそれを突立った氷柱に変化させ、更に又それを剣の刃に変化させられました。建御名方神は、びっくりして、後ろの方にたぢたぢとなりました。そこで、建御雷神は、此度は建御名方神の御手を掴らうと言って、其の手を掴り返させたふが、恰も若い葦の芽を握むやうに掴り潰して、これを投げ出しなさいましたので、建御名方神は恐れて、逃げ云ってしまいなさいました。」 [植木直一郎著『古事記』]

「日本書紀」の括目入彦五十狭茅天皇(垂仁天皇)の項には次の記事がある。七年秋七月七日、天王の側近に奉仕する人々が「当麻邑に当麻蹶速という勇敢な者があって、其の人となり極めて力が強く、角をも毀き鈎をも伸ばす程の強力でありますが、常に人に対って、凡そ此の広い世の中に己と力較べを為し得る者が有るで有ろうか。誰でもよいから一つの強力の者に出逢って、死んでもかまわないから力較べをして見たいものだと放言して居ります」と奏しあげました。天皇はこれを聞こし召されて、一日、群卿に対って「当麻蹶速といふ天下の力士だといふことであるが、誰かこれと力較べをする者が居らぬか」と仰せられました。其の時一人が進み出て、「出雲国に野見宿祢という勇士が居ると聞きます。試みにその人を招いて蹶速と立合せて見たいものでございます」と申しあげましたので、即日、倭直ぐの先祖の長尾市を遣わして、野見宿祢を御しになりました。そこで、野見宿祢が出雲国より出て参りましたので、やがて当麻蹶速と野見宿祢とに捔力をとらせることとなりました。二人は互いに対ひ立って、各々足を挙げて蹶合いましたが、野見宿祢は当麻蹶速を蹶って、その脇腹の骨を挫き、また其の腰を踏み折いて、これを殺してしまひました。それで当麻蹶速の領有している土地は悉く没収して、これを野見宿祢に賜はることとなりました。 [植木直一郎著『日本書記』]

「日本書紀」の力較べの場面は、まさに日本拳法そのものである。「古事記」「日本書紀」の記述が相撲の起源とされ、日本拳法の起源でもある。




明治時代になると文明開化、廃刀令などの影響を受けて、世間の人から忘れ去られ、わずか一部の人が古流柔術を当身拳法としてわきまえていたにすぎなかった。「昭和の始め、京都武道専門学校(第4期生)出身の大阪府警察本部柔道師範、黒山高麿(福岡1895~1977)洪水会、会長は、柔術諸流派に伝わる当身技が滅亡寸前にあることを残念に思い、当時、関西大学柔道部の学生であった澤山勝(宗海、大阪1906~1977)に当身技の復活と、安全な練習法の研究を要請した。その研究内容は、【1 】当て身技はすこぶる威力があるため、その悪用をどう防ぐか。【2 】練習に危険がともなうので、今までは十分な練習ができなかった。したがって、その安全法。【3 】武芸として生きた時代の狭量利己観念から、極意として公開しなかった技をどう発掘するか。」 [森良之祐著『絵説日本拳法入門』東京書店]

この目的の為、澤山勝は、わが国において衰退していた拳の格技の研究に入り、従来の型稽古から脱し、拳足の自由な打ち合い稽古に新しい天地を求めて開拓し、そこで防具を考案し、防具を着装する今の乱稽古を創案することによって成し遂げられたのであった。つまり最も実際的な拳の格技、言い換えると技法の真実を修練しようとするところに、その創始の趣旨があるのである。拳足の技と組打ち技との完備した徒手武道を創ろうとしたことが、日本拳法創始のはじまりをつくることになった。日本拳法の創始は、拳の格技を捜し求めることに端を発し、つぎに自由に撃ち合いをする新しい世界の門戸を開き、防具を考案し、乱稽古を樹立することによって、一応なしとげられたのであった。